昭和四十五年七月六日 朝の御理解
御理解第九十八節 「心は神信心の定規じゃによって、お伺いする時には、とりわけ平気でなければならぬ。落ち着いて静かに願え。」
お伺いをする時には、とりわけ平気でお伺いが出来るような状態。どのような事でも落ち着いて静かにお願い出来れる心の状態、そういう状態を、いわば求めておられる訳であります。「心は神信心の定規じゃによって」というのは、信心者の良心を問われていると思うです。
信心させて頂いておってこんな事である自分。そういう時には、平気であるはずはありませんし、落ち着いて静かに願える事はないと思う。私は私なりに、曲がりなりにも信心者としての生き方をさせて頂いておるというところからしか、心の定規がピタッと合うひとつの平生心といったものは、生まれてこないと思うのですよ。平穏無事、何でもない時には、それがいかにも平生心のようでありましても、何かという時にすぐ驚いたり又は心が乱れたりして、てんでお願いも静かなお願いにならないし、勿論、お伺いの出来ないような状態。ですから信心者の良心を問われておるという事と落ち着いて願えれる、又はとりわけ平気であれる、いられるという事。そういう心を信心させて頂く者は、いつも自分の心の中に頂き、又はそれを求めての信心でなからなければならない。
昨夜、壮年部会でございました。いろいろとお話が出ましたが、例によって久留米の石井さんが信心を発表しておりました。いつ聞いても、なる程、目の詰まったお話ですねえ。毎日毎日、お日参りしておるから目が詰まっておるという事じゃないという事を石井さんの話を聞いておりますと感じますねえ。というのは、
どういう事を云うておるかというと、こちらへ少し早く来てお広前で静かに御祈念しておる時に先生がお話しておるのが聞こえて来た。というのは、自分はいつも、〔この辺の言葉で云うと〕「かて残されとる」という訳です。自分はいつもかて残されておる。それでもね、かて残されておるおかげでね、自分の心の中に有り難いものを感じれれる、というような話を聞かして頂きよったら、喜代司さんがですね、自分も小さい時からもう小学校時代からもう人並みの事が出来ずにいつも教室の片隅、又は運動場の片隅でめそめそしておった。人にまともに向き合って話しをする時、いつも伏し目がちで自分がいつも引け目を感じておる。だからいうなら、勉強も出来たと、遊び友達がいわば無い。今でもやはり私は人並みに出来ませんから、人並み以上の努力精進させて頂くと。自分はもういつもどんな場合でも人から見くびられておる、又は馬鹿にされておる。その時に御祈念をしながら思うた事は、もし自分が盲だったらどうだろうか、もっともっと「あん奴は盲だ」と云うて人から軽視されたり、笑われたりするであろうけれど、今目が見えておるという事だけでも、これだけでも馬鹿にされんで有り難いなあと思うたというような事を話しております。それが実感なんです。もし自分に目が見えてなかったら、人がもっと自分を軽視したり馬鹿にしたりするだろうけれども、目が見えておるという事だけでも、有り難いなあとしみじみ感じたと。
私はよくあの人の信心を知っておりますから、申しましたんですけれども、「喜代司さん、あんたの場合はそこんところがね、よし今度はそんなら目が見えなかったら目が見えなかったで、そこからあんたは有り難いものを感じれれる人だもんね」と云うたら「それはそうだ」とこう云われた。目が見えておれば見えておるで有り難い、目が見えなかったら見えなかったで、そこから目が見えなければ頂けない有り難いものを頂いていけれる信心内容を持っておる。
私はね、ここのところがですね、ひとつ本当に神様の本当の把握というものをね、神様を、いわばしっかり本当に握っておらないと、ここが出来んのですよ。自分の都合のよういったら有り難い。だから都合よういかなかったら都合よういかなかったで、今度は都合よういかなかった事がかえってしみじみとして神様を感ずる事の出来れるという信心。私はそういう信心が尊いと思うですね。金光様の御信心はそこに極まっているのですよ、本当云うたら。
それは簡単に申しますよねえ。降っても有り難いなら照っても有り難いんだと。だから、そういう事なんですけれども、例えば自分には普通で云うならば大変難儀な事である、悲しい事である。例えば目が見えないという事は不自由な事である、けれどもね、信心はそこからなんです。目が見えないから人から馬鹿にされればされる程、目が見えないから不自由であればある程です、そこから馬鹿にされたり不自由であるからこそ頂かせてもらえれる信心の、いわゆる妙境とでも申しましょうか、有り難いというものが頂けれる信心を喜代司さん、あんたは頂いとるもんね、「いいえそんな事はありません」とは云わん。「それはそうだ」とその辺のところは自信たっぷりの感じですねえ。どんなところに置かれても、おかげ頂いていけれるという自信を持っておるですねえ。それがね、どういうところから、そういうような心が頂けるだろうかと、私はそれを問題にしたのですよね。喜代司さんの、例えば月にまあせいぜい二回でしょうかお参りして来るのは。家内が月次祭たんびにお供えを持って参るという程度、自分は二回位。それでいてどうしてあんなそういう目のこまい、いわば神様をですねえ、ピッタリ頂いておる把握していけるだろうかと・・・・・
信心の無い妹達が、時々「今日は兄さんの話を聞きに来た」と云うて帰って来るそうです。「兄さんの話を聞いておってこれで分かった、これで元気が出た」と云うて又帰るそうです。もうお話というものは、「真というものは」と話しておりましたがね。真というのは同じじゃない。その時その時に違うんだ。その真を話す。今、今日、只今感じておる神様なんですねえ。今、感じておる真実なんです。それを語る。
先日も八幡の方に行っております妹が参りまして「本当にもうおかげを頂いた。兄さんの御理解頂いてから分かった。この次には、もちっとましな私になって」と云うて喜んで帰ったと。決して嘘じゃないようです、本当です。それはもう水も漏らさん話をするという意味じゃないです。お話を頂きよってですね、私が、「そうだ、そうだ」と合点する事ばっかりですもん。それがどういうところからそういう信心が頂けるかと・・・・・だから「あんたはもう教会は外れて、もう教会主義でいったっちゃよかよ」と私が申しましたら「いいえ、そげな事絶対に出来ません。何と云うたって僕の心の中には、親先生の信心がちゃんとあって、そこからヒントを与えて頂くのであり、そこから親先生の生き方というものをやはり習わせて頂いとるのじゃから、もう教会主義なんてそんな事は出来ません」と自分で云っているのです。
「信心する者は変人になれよ。変人とは直い事ぞ」とおっしゃる。正しくこの人はそういう人です。信心する者は変人になれと、もう変人も変人、大変な変人です。それは親やら家内やらが、もう云うなら変人振りには段々慣れておったでしょうけれども、時には辟易するような変人振りを発揮する訳ですね。ところがその変人振りと云うのがです、実にいうなら正しい生き方なんです。いわゆる変人とは直い事、真っ直い事という事なんです。そういう御教えがピッタリきたような人物ですねえ、喜代司さんという人は・・・・・第一ですねえ、非常にけちん坊です。けちん坊ですけれど、何かそこに人が助かるといったような時には非常に見事にその事に奉仕しておりますねえ。自分でも云うのです「僕は、まあだ夏の背広を買うてない」と。例えば久留米の小さいゴム会社では一番景気がいいようです。電話でも四つも取っている位ですから、それが四つの電話がもうフルにに使うとるという位ですから、それから聞いただけでも忙しいという事が分かるでしょうが。もう朝から晩までいうならば、それこそ家内が来て云うのです。「家のお父さんばかりは気の毒な」て。「他の兄弟達は外交なら外交の方でいうなら、てれんぱれんでよか洋服着て、よか自動車に乗ってさるきよるけれども、家のお父さんばかりは、もう真っ黒になって朝から晩まで働くばかり。」職人さんやら事務員さんやらのそれこそ何倍も働く。そして家内には小言云うた事がない、子供達をおごった事がないという生き方の人です。
例えて云うて、いつも云うように腹かいちゃ馬鹿らしかというものをちゃんと握っている。絶対、腹かかんこの人は、どういう事にでも・・・それはもう計算ずくです。もう腹かきゃ馬鹿らしかという事を知っている、思い込んどるです。だから、どうしてそういう生き方が身についてくるかというと、昨日の朝の御理解のように、いわゆる実意丁寧神信心が辞に於いてなされておるという事ですよ。そしてから、こういう事を云ってました。「私は怖いという事を知りません」と。いわゆる不安というものがないと、というほどしに信心者としての良心をもし問われた時です、そんなら喜代司さんは、そう答えるだろう。私は怖いという事がありません、不安がありません。それに引き換えて私の事を云うと、日々が不安で不安でたまらないというのが私。もう神様が怖うて怖うてたまらんというのが私です。ですからいうならある意味で、薄氷の上を渡るような思いで毎日を過ごさせて頂くし、不安で不安でたまらんから一生懸命の信心をさせてもらわなければ、だから心が平生である訳です。不安だから一生懸命の修行する、不安だから本気で教えに取り組む、いわゆる限りなく美しくならして頂こうという事に本気で取り組む、不安だから・・・だから取り組ませて頂いておる時には、いつも心が平生であり皆さまがここでそんなら様々なお伺いをなさいましょう、お伺いをなさいます時にですね、だから私がそういう事をいつもここの修行生の方達に云うのです。「私に隙があったらいつでも切り込んで来い」と。というのはね、私がいつも大案心のおかげを頂いておるという意味じゃないです。いつも不安である。神様が怖うて怖うてたまらん。ですからいわゆる戦々競々と云うか本当に薄氷の上を渡る思いで日々を過ごさせてもらい、不安であるからその不安をなくする為の修行を一生懸命取り組んでおる、だから皆さんが 夜中いつでもどんな場合でも、ここに出てみえたが最後、私が平生心でお伺いか出来るでしょうが。ここに有ります神様にお伺いする時には、とりわけ平気な心その平気な心がそんならそういう私は、石井さんのようにですねえ、立派に出来ていない、実意丁寧神信心が出来ていない。だから不安なんです、不安だから一生懸命でその不安をはらうだけの、いわば信心修行に取り組ませて頂いておる。だから皆さんがどういう難儀な問題をここでされてもです、・・・
もう私は昨日ですねえ、佐田さんの所の霊祭を夕方もう六時頃だったでしょうか、東京からわざわざその霊祭をうけられる為に娘さんが帰っておみえになりますから、飛行機が遅れた関係で遅うなったんです。それでお祭りを仕えようと準備が出来ておるところに、けたたましゅう上野先生がやって参りましてから「先生、今、堤清さんが事故を起こされましてから正面衝突をされました。そしてもうおろおろ声で何を云うとるやら分からんような状態でございます。只、云わっしゃった事は、警察問題にいたがええじゃろうか、どうじゃろうか先生にお伺いしてくれと云いよんなさいますから」と。もう本当にその場でビクッともしませんでした。何故って昨日は実意丁寧ていうあれを心の中に頂き続けておる時でしたから本当に。それでもうその場でお伺いさせて頂きました。そしたら普通は大概、出来たら話し合いで片づけろといつも云うのですけれども、昨日は「成り行きを大事にしながら警察に頼んだがおかげ」という事でした。それが話し合いで片づけとったら大変な損害になるところでした。それが、お父さんが原鶴に温泉に行っちゃる。それを迎えに行く途中であった。それでお父さんが来てから、自分は北野の町会議員であるというものがありますから、吉井の町会議員に来てもらって話をつけて、向こうの町会議員も分かった人で「そんなら堤さん、修繕をしてやって向こうは五人も乗って五人が怪我しとる、それだから五万円出しなさい。そうすると私が話をつけてやろう」「そんなら出そう」という事で話は決まったんです。ところがその、先生が警察に云うとけと云うちゃったもんだから清さんが又電話をかけて来てもらって実地検証させてもらったんです。もう一から十まで先方が悪かった。だから又、御破算になって金一銭出さんで済むようになったと、こういう訳なんです。例えばそれは昨日のおかげ話ですけれども・・・
本当に昨日、実意丁寧という事に取り組んでなかったらどういう事だっただろうか、私が慌てたかもしれません、共励殿におりましたからね。
神様から、お伺いをさせて頂きましたら頂く事も例えば、草花がいっぱい作ってある、その中をつむぎ風が吹いて花が折れてしまった。けれども折れておる所が丁度よか所から折れてですね、みんなお花に使われるような様子を頂いたんです。だから例え骨が折れとったっちゃ、又おかげ頂くという感じでした。おかげで私は、それで安心させて頂いておった訳でありますが、それから一時間あまりしてみんな帰って参りましてからお届けをされますのに、その通りのおかげになっております。そういう時に私がお伺い出来ずにおったら・・・。そしたらもうその次の霊祭のお祭りがもう今までとは違った斬新なありがたーい気持ちで仕えられた。あれが普通だったら、もうその時がドキドキしてから御霊様のお祭りは出来なかったかもしれませんよね。それは形は出来ても心からは・・・。もう本当に、それこそ有り難い有り難い落ち着き払って霊祭が仕えられました。もうその霊祭をほんな目前にしてからでしたから。そういう時に心が乱れたらどうでしょうか。大事なお祭りが、わざわざ東京から帰ってみえてからお祭りを仕えなさらなならんといった大事なお祭りに、もう実に有り難い事だった。だから私は、
喜代司さんとは違って、もうとにかく不安でたまらない、いや神様は怖うてたまらない。又は不安でたまらない。だからその不安を消すだけの信心を常日頃、心がけさせて頂いておる。そして、いつ誰がどういう「先生、さあ!」というような時でも、どっこい私が落ち着いてお伺いが出来たり、お願いが出来たり静かに願えたりする状態を自分の心の中に頂き続けておる訳であります。
お伺いする時には、とりわけ平気でなからなければならない。その平気な心をいつも自分の頃の中に頂いておく、求めておかねばならん。いつでも静かに神様に願えれるだけの心の状態というものを頂いておかねばいけないぞ、と教えられております。それには信心者の良心というものを問われております。いうなら、背信の行為があってはいけないという事です、一言でいうなら。自分の心に背くような事をしておっては平生心は生まれてこない、静かには願えない。信心しておってこげな事しておって罰かぶりはせんじゃろかという思い方があってはならない、と。そこで私共が日々、いわゆる背信行為ではない日々がどのような事の中にでも、実意丁寧神信心をモットーにしての生活、そこから生身を持っておる人間の事ですからお粗末もあれば御無礼もある。そこのところを詫びて詫びて詫びてぬかせて頂くというような、辞を低うした生き方というものが身についてくる、いわゆる実意丁寧神信心が身についてくる。そういうおかげを頂かねばならんのです。
壮年会を終わらして頂きまして、みんなを送り出してから最後に私がここで御祈念をさせて頂きよりました。そして今日の壮年会の事をお礼申させて頂き、喜代司さんが云った事が「本当にどういうところからああ云う信心が生まれてくるのだろうか、と。これはもう喜代司さんだけのものだな」とそんなことを思うてね、私は御神前で御祈念させて頂きよりましたらね『喜代司さんが、ゴムの手袋をはめて電線を扱っておるところ』を頂きました。ははあ、この人は確かに、いわゆる神様は電気帯のようなお方だと云われとりますから、もう神様をしっかり握っておるからあれが出来るんだという事。なる程、怖くないはずだなあ、ゴムの手袋はめとるもの。ゴム手袋は電気を遮断する訳でしょうね。よく拝ましてもらいよったらですね、小指のこの辺のところから少しゴムが破れておるところを頂きました。そんなら私は、どういうような意味合いに於いて神様を頂いておるのであろうか。私はいつもゴム手袋もなければね、いわゆる枯れた木や竹では電線に持って行ってもピリッともこない、心がいつも生き生きとしておらなければならない。それをいつも私は生(なま)で扱っておるという感じですね。だから怖いんです。
例えば電気工さん当たりがね、一人前と云われる為には生の電気を扱えなければ一人前とは云えないと云われております。私も、やや一人前にならせて頂く為に、いわば手袋も何もはめずにいつも生で神様を扱っておる。なる程、喜代司さんが云うた事がよう分かります。それだけのおかげを頂いておってですねえ、有り難いとか勿体ないという実感が全然ないと云うのですから。不思議でしょうが。いわゆる神様をな生で扱ってないから、その実感もないと・・・。勿体ないというのは、お水を粗末にしちゃ勿体ないというのは分かるけれども、あんまり無駄遣いしちゃ勿体ないという勿体ないは分かるけれども、本当に信心も出来んのにこのようなおかげを頂いて相済まん、本当に勿体ない事だという勿体ないなという、それこそ私共は勿体ないなと思うたら有難涙がこぼれてくる。そういうものが喜代司さんには無いという。ははあ、ここに私と喜代司さんの信心の相違点があるなあと思うた。だから私が怖いのは、生でいつも扱っておるから油断したらこちらの方がビリッとしてやられるでしょ。けれども、そのかわりに生に有り難いというものが流れてくる、いつも、実感として・・・。だから喜代司さんもああして合楽の信心という事には傾致しておりますから、例えば小指のへんの破れておるところの辺から、ビリッとでん来た時に初めてだから本当の意味での生に有り難い勿体ないが感じれれるような、いわば信心が出来る時期がもうそう遠くはあるまいと私は思いました。けれども、神様をあれ程、ゴムの袋ででも握っておるという事はね、本当に見上げたもの。それは、あの人の日頃の生き方がですね、変人振りが発揮しておる。只、直いという意味に於いての変人振り、いわゆる実意丁寧神信心をやはり貫いておる。そういうところに、なる程、商売はます
ます繁昌していくおかげになっておるなあと、まあ第一に家内から信用され、親から信用され、兄弟達から信用される元がそこにあるなと、私は感じました。
私達はどうでも、だからここでは皆さんの場合は生で頂いてもらわなければいけません。神様を生に頂くという事は有り難き勿体なき畏れおおき。神様は有り難いお方じゃと云うと同時に、神様はある意味に於いて怖いお方じゃと分かる信心にならにゃならんという事です。そこにいわば私共、信仰者のいうなら良心というものをいつも見極めてそれを見つめて、今日も一日どうぞ神様のお心に適う一日でありますようにというような願いと、その生き方が行じられるおかげを頂く訳であります。
信心者のいわゆる良心を問われておられる。又、信心させて頂く者はいつも平生な心、又はいつでも神様の前に静かに静かに御祈念が出来れる状態を頂いておかなければならん。いつ、どのような事が起きてくるとも限らん。そういう時にこれを乱さんで済む、どっこいと日頃の信心にものいわせて、それを受けとめて神様にお伺いが出来たりお願いが出来たりする信心を頂かしてもらわなければならない。為には、私共の心は信心の定規じゃによってと仰せられる、心の定規というものをいつも、いわゆる自分の良心というものを見極めて有り難いかげを頂いていく事の為にいわゆる心に背く、いわゆる背信行為の日々であってはならないという事になります。それでも例えば一日を締めくくってみると、ああいう事を云うた、ああいう事をした、神様の心に適わない事であったろうとお詫びをさせてもらい、又はこれはいけない事だとみすみす自分の心の中に思いながら、ついそれを犯してしまうような場合も有ります。だからそういう時には、それに対するお詫びの信心を改まりを込めてお詫びさせて頂くと云ったような信心がね、日々これがまあ普通の者、私共の信心。喜代司さんの信心はちょっと変わっている。まあ信心の進め方が私共と同じではない。けれども、あれでも段々本当の意味に於いてのおかげ、ゴムの手袋が破れておるところからですねえ、もし感電をして神様をいわば今までは神様は、絶対怖くないと云っておった喜代司さんが、やっぱ神様は怖い方じゃと分かった時分がね、本当なお道の信心者としてのよいおかげを受ける時であろうと思いますね。どうぞ。